なぜ私はメールを待っているのか
メールが来ない、またはこういうメールがほしいのにな、って苦しくなっているときは、承認欲求が“恐れ”に支配されているとき。
苦しいっ!ってなったら、一旦その気持ちを俯瞰してみよう。
こういう気持ちのままいるとどうなるんだろう、
こういう自分でいたいんだっけ?
そういう自分は好き?
と自分に問いかけてみよう。
ちょっと考えてみよう。
「なぜ私はメールを待っているのか」
・寂しい気持ちがあるから
・構ってほしいから
・誰かに必要とされたいから
・相手がどうしているか気になるから
・連絡がない=相手が自分に興味がない という方程式が脳にインプットされてて、メールチェックをする度に悲しくなりたいから
う~ん、これな!って感じです。これだよこれ。
わたし、あえて自分から悲しくなるほうへ行ってるんだって最近本当に実感している。
(前は整体師さんにそう言われても今くらい納得してなかった。今は心にナイフが刺さった感じ。)
自分を分析するに、こういう執着まみれの人って常に辛いほうを好む。
相手に執着できる理由をつくって安心したいというか・・・
相手に「こうしてほしかった!なんでしてくれないの!?」みたいに責める理由をいつも持っていたいというか。
ずっと悲劇のヒロインでいて、それを救ってくれる人を待っているというか。
しかも、全然自分から悲しくなろう、と意識してやっているわけじゃない。
自分が「執着をしながら生きる」と決めてしまったから、そういう行動をしないと生きていけなくなってしまう、という言い方が合っている。
だから、悪気があるわけじゃない。ただ、そうなる理由があるだけ。
私にも、メールを待つ理由がある。
でも、メールを待っている自分でいたくないのだ。執着と一緒に生きる女をやめたいんだ。
だからこうやって考えているんだけど。
こういう自分を自覚したとき、思ったことは
「私がなりたくない、“みっともない女”に私はなっているんだ(ガーン)」だった。
傍からみたら、私が「男に振り回され自分に自信がなく、かといってそれを脱却しようと頑張っている風でもなく、ただただ男に寄りかかっているだけの女」
だと一目瞭然だろう。
でも、私は自分がみっともない女という自覚が全くなかった。
「執着がないと生きていてない女」がする、自分から辛くなる、というその行為はいたって普通なのだ。通常営業。
むしろ、こんなに尽くしている私、超頑張ってるって思ったりもするし、こんな頑張っているのに、なぜ彼は応えてくれないの?!ってなるわけだ。
私だって、こんな感じだった。1年前までは。
私は少しずつ、執着さんと離れつつある。
だから、メールを待つ理由も少しずつ薄れていくはずなのだ。
悲しくなる理由なんて、もう自分がただ悲しくなるだけなのだ。
いやはや、昔の習慣と言うのはなんとも執拗なもので、あっという間に昔の感覚が今の自分の「普通」になってしまう。
私は、もうメールを待つ人生をやめたい。
執着とはもうオサラバして、自由に生きていきたい。
だから、もう悲しむ必要なんてない。
ああ、早く休みにならないかな。